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おはようございます。515hikaru です。
Technology and Society は、ソフトウェアエンジニアの視点から社会を切り取るニュースレターです。
対立と融和の使い分け
#47-8 政治家って会ってみるとイメージ変わることありませんか? — omny.fm
ABCテレビが平日夕方に放送する情報番組「キャスト」のメインMC・上田剛彦アナウンサーと、メディアをめぐるあれやこれやを語るシリーズ第2弾。「いろんな人に会いたい」とアナウンサーを志望した上田さん。政治家のイメージと実態の違いについて語り合いました。この番組は2021年10月21日に収録しました。
既得権益に対抗する、対立するということをよく耳にします。
決して政治の世界だけではありません。既存の権力に対抗したり対立したりして、権力側を動かすという方法はどこでも行われています。典型的にはマイノリティが団結してデモをする、というような筋書きですが、例えば上長に部下(のグループ)が意見をする、みたいなのもこの形式でしょう。
一方で、権力と本来は対立する立場でありながら融和の姿勢をとることもあります。それがこのポッドキャストで紹介されている、女性政治家が男性政治家の "顔を立てる" というエピソードです。
考えてみれば、特に組織の中では基本的に権力構造に従うほかありません。だから対立したところで自分の立場が危うくなって終わりです。
ではイエスマンになるべきか、というとそれは違います。権力者と融和、もっといえば自分より立場が上の人間を懐柔するのは、然るべき時に自分がその権力を借り受けるためです。
人はなぜ権力を得ようとするのかと考えれば、究極的には自分の意思や要望を実現するためです。その意思や要望を通すには自分にはない権力が必要だから、何らかの形で権力を行使しようとするのです。そのためには、自分にはない権力を持つ誰かに行使してもらうしかありません。
そして行使する誰かも人間である以上、状況によってはいくら対立を深めても話が前に進まないことはあるでしょう。かえってお互い意固地になるだけかもしれません。
権力と融和する。それは一見、自分の意思を通さない、逃げの姿勢にも思えますし、実際逆に権力に懐柔されてしまう可能性もあります。でもそこで行われている駆け引きは、見た目よりも複雑なものなのではないでしょうか。
News of the week
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Release という Kubernetes の実行環境を再現性のある形で作成・削除が容易にできるツールと、そのようなツールの背景にあるものが紹介されています。
自分の仕事でもいわゆるステージング環境、テスト環境をどう管理するのかというのは話題に上がっては改善してはいるものの、どこか抜本的な解決策が打てておらず、このようなアプローチには非常に関心があります。
このツールは Kubernetes クラスターで動くソフトウェアであれば原理的にな使えそうですし、何よりこのツールがなぜいま必要とされている(市場の期待を受けている)のかの考察が面白かったです。
Brave built its own crypto wallet into its browser - The Verge — www.theverge.com The Brave web browser has announced that it’s completely overhauled its crypto wallet integration, building its own native tool to let users store their cryptocurrencies and NFTs.
Brave が仮想通貨 wallet をブラウザに組み込んだようです。
ようです、というのも実は僕もよく意味がわかっておりません。Web 3 がこれから来る、という話題はそんじょそこらで聞きますが、どのような姿になっていくのか僕はさっぱりわかっていません。
ただ Brave の検索エンジンを開発したり、先進的な機能を投入していく姿勢はとても興味深いと思っています。Google Chrome や Microsoft Edge など別の Chromium ベースのブラウザと比べても独自色が強いかなと。今後も注目したいです。
あとがき
先日、COVID-19 は存在しないと、存在しない病気やウィルスに対するワクチンなんて不要であり、身体へ害をもたらしているだけだと声高に叫んでいる集団を目にしました。とある駅の近く、人通りの多い場所でした。
僕はこの主張には賛同しませんが、このような主張が聞けることは健全かなと思います。主張をすること自体は自由であり、権力が市民の権利を奪っていない証左でもあります(詳細は知りませんが、野良でやっているわけではなさそうだったのでたぶん警察かなんかの許可をとっているんじゃないかと)。
社会の風当たりでインターネットからは COVID-19 に関する "誤った" 情報は検閲されたり、場合によっては削除までされています。確かに多くの人にとって危険な情報であることは間違いないし、無条件に拡散されることは回避しなければならない内容かもしれません。
一方で、僕は正しいことなど数学の世界くらいにしかないことも知っています。たいていのことは反証可能であり、将来覆る余地があります。今日 "正しい" ことが明日も "正しい" 保証はどこにもありません。
公権力は主張をする自由を奪いませんが、同時に責任もとりません。ソーシャルメディアもプラットフォームの中では権力者である以上、ユーザーの権利をどこまで認め、どこまで責任を負うべきなのか。ビジネスと両立するにはどうするべきなのか。そして検閲は果たして妥当なのか。
どこにも答えはないはずなのに、どこか即時的な効果を期待して対処しているような気がしてなりません。